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横浜地方裁判所 昭和55年(ワ)1094号 判決

原告

日本農産工業株式会社

右代表者

加藤敏雄

右訴訟代理人

森川静雄

馬場敏郎

被告

伏見信用金庫

右代表者

角井作三

右訴訟代理人

三木善続

右訴訟復代理人

田辺尚

花村聡

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一1  請求原因1ないし3の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

2  〈証拠〉によれば、以下の事実を認めることができる。

(一)  被告は、昭和五四年六月一二日、かねて手形割引により取得していた約束手形二通(いずれも額面金額二〇〇〇万円、支払期日同月一〇日、乙第一、二号証)の期限を延長するために、訴外石高の依頼に応じて本件手形を手形割引により取得した。

(二)  被告は、本件手形の支払期日である同年七月二〇日、支払場所である訴外銀行に対し、本件手形が決済されたかどうかを問合せた。これに対し、訴外銀行は、被告に対し、同日午後三時過ぎころ一旦は本件手形が決済された旨回答したが、同日午後六時三〇分ころ本件手形は決済されなかつた旨連絡してきた。

(三)  被告が訴外石高に対し本件手形の買戻しを要求したところ、同訴外人は、本件手形は偽造ではないと主張して譲らず、被告に対し、これを裏付けるものとして原告代表者訴外松井の記名押印(但し、本件手形の記名押印と同一であり、真正のものではない。)のある約束手形一〇通(いずれも額面金額二〇〇〇万円)を確実に決済する旨の誓約書、原告代表者訴外松井の印鑑証明書及び資格証明書(乙第三ないし第五号証)を掲示したので、被告はそのコピーを受け取つた。

(四)  本件手形の処理は、同月二三、四日ころ、訴外石高に対する手形割引を直接担当していた被告の音羽支店から本部の融資部に移管された。本件手形の処理を担当した被告の本部融資部副長訴外布村仭(以下「訴外布村」という。)は、音羽支店から送付された本件手形(付せんを含む。)並びに前記の誓約書、印鑑証明書及び資格証明書のコピーを検討したが、特に、本件手形の引受人欄の原告代表者の記名押印の印影と誓約書及び印鑑証明書のコピーの印影とを肉眼で平面照合した結果、一致しているとの印象を持つた。更に、訴外布村は、同月二六日ころ、原告の代表取締役であつた訴外松井が同月二五日取締役に降任されたことを新聞報道で知り、同年八月上旬には原告の商業登記簿謄本を取り寄せて解任されたことを確認し、解任という事情からして原告に対し表見責任ないし使用者責任を追及する余地もあると考えた。

(五)  被告は、右(四)の検討の結果、原告に対し手形金の支払いを求める手形訴訟を提起することを決定し、裏書人である訴外石高と原告とを被告とする別件訴訟を提起した。なお、同年三月ころ、原告名義の多数の偽造手形が主として関西方面に出回つている旨の新聞報道がなされたが、被告は、別件訴訟提起前にはこれを知らなかつた。

(六)  被告の原告に対する別件訴訟は被告の敗訴に終つたがその判決は、被告の請求を棄却する理由として、本件手形の代表者印の印影は真正な印鑑の印影と似ていることは否定できないが、し細に対照してみると相違する個所もあり、他には同一であることを裏付ける証拠がない旨判示している。

(七)  本件手形の引受人欄の原告代表者の記名押印の印影と真正な印影とは、〈証拠〉が示すように、し細に対照すれば相違する部分が認められることは確かであるが、肉眼で平面照合をした場合には一致ないし極めて類似した印影であるとの印象が得られる。

二1 民事訴訟の提起及びその追行が不法行為を構成するのは単にこれに応訴した者が当該訴訟において勝訴の確定判決を得たというだけでは足りず、訴えを提起した者において自己の主張が認容されるべき法的根拠がないことを十分に知つていた場合、またはわずかな注意義務を尽すことによつて自己の主張に法的根拠がないことを知ることができたのに、この注意義務を尽すことなく訴えを提起したことが極めて軽率と非難されるべき場合、あるいは訴えが権利の実現を目的とするものでなく、報復など他の不法な動機ないし目的で提起された場合など、要するに訴えの提起がそれ自体公の秩序または善良の風俗に反する場合に限られると解するのが相当である。

2  これを本件についてみるに、前記一に認定した事実によると、被告は、手形割引により取得した本件手形を支払いのため呈示したところ、偽造のため支払いに応じられない旨の付せんを付されて返却されたので、本件手形の引受人欄の原告代表者印の印影と割引依頼人である訴外石高から入手した前記誓約書及び印鑑証明書の原告代表者印の印影とを肉眼で照合して一致するとの印象が得られ、更に原告代表者であつた訴外松井が本件手形の不渡り直後に解任されるという事情も知つたので別件訴訟を提起した、本件手形の引受人欄の原告代表者印の印影と真正な印影とは、し細に検討すると微妙に相違する個所が認められるものの、極めて類似しているというのである。右の認定に照らすと被告において、別件訴訟を提起、追行するに当り、自己の主張が認容されるべき法的根拠がないこと、すなわち原告に対する為替手形金請求権の不存在を十分に知つていたということができないのはもちろん、わずかな注意義務を尽せば原告に対する請求権の不存在を知ることができたのに、この注意義務を尽すことなく訴えを提起したということもできないというべきである。(なお、被告が、昭和五四年三月ころ、原告名義の多数の偽造手形が主として関西方面に出回つていることの新聞報道がなされたことを知らなかつたことは前認定のとおりであるが、本件手形を含む原告名義の手形が偽造であることが確定した旨の報道でないことも前掲甲第七号証の一ないし三に照らし明らかであるから、このことをもつて被告に重大な不注意があつたということができないのはいうまでもない。また、原告は、被告が銀行業を営むことから通常人よりも高度の注意義務を負う旨主張するが、本件は、被告が手形債権者として手形債務者に対し手形金の支払いを請求する場合なのであるから、そのように解すべき根拠はないというべきであり、原告の右主張は採用の限りでない。)更に、被告の別件訴訟の提起、追行が、権利の実現以外の不法な動機ないし目的に基づくものと認むべき証拠もない。そうすると、被告の別件訴訟の提起、追行をもつて、公の秩序または善良の風俗に反するということはできない。

3(一)  原告は、被告が偽造の付せんを無視して別件訴訟を提起したことは軽率であり過失は免れないと主張する。しかしながら、支払銀行は手形債務者の委託に基づいて支払いを担当するにすぎず、委託者から支払いの拒絶を指図された場合、その指図の内容、理由が真実であるかどうかを調査する義務も権限もない。したがつて、支払銀行としては手形債務者の申し出た理由をそのまま付せんに記載するほかないのであるから、本件手形に偽造の付せんが付されているということは、結局、原告が本件手形を偽造と判断したことをそのまま表示しているにほかならない。そうであれば、被告においてこれを無視したとしても、そのことから直ちに別件訴訟の提起が軽率であり、過失があるということはできないといわざるをえない。原告の右主張は失当である。

(三)  次に、原告は、被告としては不渡り後であつても訴え提起前に原告に対して支払いを請求するのが当然で、問合せても無意味であるからといつていきなり訴訟に出ることは不注意であると主張する。しかしながら、一般的にいつて、手形金の支払いを請求する場合、手形債権者に訴えの提起前に支払拒絶をしている手形債務者に対し更に問合せをなすべき注意義務があるということができないのはいうまでもないし、殊に、本件のように、手形授受の当事者ではない手形債務者が偽造を理由に支払いを拒絶している場合、手形債権者に訴えの提起前に手形債務者に対し問合せをなすべきことを要求する何らの根拠もないといわざるをえない。そうであるとすれば、誓約書(乙第三号証、もつとも、これが本件手形の支払いを原告において確約しているものでないことはその文言上明らかである。)があるとの事情を併せ考えても、被告において、原告に対し、別件訴訟の提起前に問合せをしなかつたことをもつて、別件訴訟の提起に当り尽すべきわずかな注意義務を尽さなかつたということはできない。なお、〈証拠〉によれば、原告は、本件手形以外の偽造手形に関する訴訟外での支払いの請求や問合せに対し、手形は偽造であるから支払いには応じないとのみ応答していたことが認められるのであるから、仮に、被告が別件訴訟の提起前に原告に対し本件手形について問合せをしたとしても、そのことにより原告に対する請求権の不存在が被告に明白になることは期待できなかつたものというほかはない。したがつて、原告の右の主張も理由がない。

三以上の次第で、原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(志田洋)

手形目録〈省略〉

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